瑩山禅師様のご生涯は、鎌倉幕府の栄枯と寄り添うかの如く一致しています。 正式な僧となる為の得度式をお受けになる前後に二度の元寇があり、その後は 幕府の支配力は全国的に強化されました。
瑩山禅師様も組織者としての幅の広さと、何をも柔軟に吸収する進歩性を 以て、能登(石川県)を中心に宗旨の敷衍(ふえん)に努められ、多くの 逸材を育てられ、後世の曹洞宗隆盛の礎(いしずえ)を築かれました。
北条氏の専制により幕府が衰退し、後醍醐天皇が倒幕に動き 始める頃、瑩山禅師様も、そのご生涯をお閉じになりました。
生誕地は、越前(福井県)の多禰(たね)。『洞谷記(とうこくき)』には、1268(文永5)年、観音堂敷地内でお生まれになったと記されています。熱心な観音信者だった母懐観大姉(えかんだいし)が、多禰の観音堂への参拝路上でのご出生であったので、瑩山禅師様の幼名は「行生(ぎょうしょう)」と名付けられました。父は了閑上座(りょうかんじょうざ)。 8歳、ご自身の強い意志により母方の祖母明智(みょうち)に連れられ、越前永平寺三世徹通義介(てっつうぎかい)禅師様のもとで出家されました。明智は道元禅師様が宋から帰国直後に入門した女性です。義介禅師様は、義演派との対立が悪化した『三代相論』により住職を退任し、山麓に養母堂をつくって隠居されます。これにより、79歳となる二世懐奘(えじょう)禅師様が永平寺に再住する事となりました。 13歳、懐奘禅師様のもとで得度式をお受けになり、僧名を“瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)”と名づけられ正式の僧となられました。9歳から師の膝下での修行のさなか、11歳の時に文永の役、得度の翌年に弘安の役がおこり、北陸の地も二度の元寇で揺れ動いた時でもありました。
17歳、「師翁」と慕い尊称していた、懐奘禅師様がご遷化されます。懐奘禅師様の遺命により、義介禅師様が永平寺に再住したため、『三代相論』が再燃。19歳の頃、瑩山禅師様は永平寺を後にし、道元禅師様高弟の宝慶寺(ほうきょうじ)住職寂円禅師様に参じ、師の厳しい指導のもと不退転の菩提心を興すこととなりました。 20歳頃、瑩山禅師様は宝慶寺を後にし、上洛して万寿寺の東山湛照(とうざんたんしょう)禅師、東福寺の白雲慧暁(はくうんえぎょう)禅師、紀州(和歌山県)由良、興国寺の心地覚心(しんじかくしん)禅師に参じたと伝えられています。瑩山禅師様が参じた禅匠は、臨済宗 聖一派・法灯派ですが、東山禅師と白雲禅師は天台宗のご出身で、特に白雲禅師は天台密教を色濃く受け継いだ人、心地禅師様はもともと真言宗の僧侶で、密教的性格の極めて濃い人として知られていました。これらより、天台密教と真言密教を、白雲禅師と心地禅師より学んだと推測することができます。
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