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父は後鳥羽上皇院に仕える内大臣久我通親、母は前摂政関白松殿基房の三女伊子。最近の研究では、通親の二男通具が父ではないかとの説もある。どちらにしても、村上源氏直系、権門である。

執権政治
源頼朝は1192(建久3)年、朝廷から征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府が開かれた。本格的な、武家政権の始まりである。しかし、頼朝没後、将軍となった頼家・実朝が相次いで暗殺され、幕府の実権は執権北条義時が握った。一方、京の朝廷は、実朝の死を契機に幕府から実権を奪い返そうと、1221(承久3)年、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が義時追討の命を下す。世に言う、承久の乱である。この戦いで朝廷は敗北を喫し、後鳥羽・つちみかど土御門・じゅんとく順徳の三上皇は配流(はいる)、ちゅうきょう仲恭天皇は廃位となった。以後、さらに地盤を固め、北条氏による執権政治は、泰時・時頼へと続くのである。
 
中国浙江省の天童山景徳寺は現在、天童寺という。写真は天童寺の仏殿。

北条時政は二代将軍頼家を修善寺に幽閉し、幕府の執権となった翌年、頼家を謀殺した。道元禅師様4歳の時であった。

幼少にして、ご両親を亡くされた道元禅師様は、母方の叔父の天台宗僧侶 良顕(りょうけん)※ を訪ね、比叡山 横川(よかわ)で出家。翌年、天台座主(てんだいざす)公円(こうえん)について剃髪得度(ていはつとくど)。菩薩戒をお受けになられ、「仏法房道元(ぶっぽうぼうどうげん)」と名乗られました。
※良観(りょうかん)とも伝えられる。

実朝を甥の公暁が刺殺。源氏将軍家は断絶した。道元禅師様20歳の時であった。

朝廷の後鳥羽上皇は西国武士・僧兵らを集め鎌倉幕府を倒そうとするが、敗北。道元禅師様22歳の時であった。
明全様達と宋へ渡り、天童山景徳寺の無際良派禅師様について臨済宗大慧派の禅を修学され、さらに、杭州の径山、台州の万年寺などを遍歴し、禅宗各派の嗣書を研究。しかしながら、正師にめぐり会うことはできない。
 

天童山景徳寺の住職となった、如淨禅師様の名誉や政治権力を避け、古風な曹洞禅の修行を真摯に続けるその姿勢は、道元禅師様にとって理想の師、まさに正師であった。二年後「身心脱落(しんじんだつらく)」の境地を得て、嗣書を授かり帰国する。

帰国後、建仁寺に仮寓、「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」を著す。道元禅師様が伝える坐禅はお釈迦様から伝わった正しい仏法であると説き、出家・在家・老若男女を問わず、全ての人にすすめている。よって、この書は道元禅師様の「独立宣言」でもあった。

「只管打坐」の専修禅を強調。比叡山の圧力が強まり深草に避難。
布教活動が活発化し、三年後に興聖寺を創建。 懐奘禅師(えじょうぜんじ)様など達磨宗系(だるましゅうけい)の入門が続く。

興聖寺創建と時を同じくして、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の執筆着手。「現成公按(げんじょうこうあん)」「礼拝得髄(らいはいとくずい)」「嗣書(ししょ)」「仏性(ぶっしょう)」「行持(ぎょうじ)」の巻等、13年間の深草避難中に、半分近くの42巻を著された。



 


布教が積極的に進められると、天台宗の圧迫が再び強まり、さらに興聖寺の目の前に、臨済宗東福寺が開かれたことも重なり、京での布教を断念。志比荘(しひのしょう)の地頭(じとう)波田野義重のすすめで越前(福井県)に移る。
越前の 禅師峰寺(やましぶじ)・吉峰寺(よしみねでら)などで精力的に説法。9ヶ月間で「正法眼蔵」の三分の一にあたる「仏道」「諸法実相」などの31巻を著された。布教のための妥協は一切なく、純粋な出家至上主義を説いた。

大仏寺を建て、修行方法を確立した後に、永平寺と改名した。寺名は仏教が初めて中国に伝来した「後漢 永平11年」に由来する。道元禅師様の禅は、「正伝の仏法である」との強調を、このことからお伺いすることができる。

執権 北条時頼の度重なる懇請により、鎌倉に赴く。菩薩戒を授け禅の教化(きょうか)につとめる。時頼の寺領寄進を断り、翌年永平寺に帰山する。

厳しい修行のために病状が悪化し、療養先の俗弟子 覚念(かくねん)の邸で、道元禅師様は、その生涯に幕を閉じられた。

 

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